相原正明写真夜話ⅩIII

よく作品と作例の違いを聞かれる。答えは簡単だ。作品は自分の内面で見た光と影を表現するもの。作例は自分の表現もしつつ、この機材を使ったらこう撮れる。あるいはこの場所ではこんな風にとれますよ、露出もしくはWBの違いでこうなりますよと第3者に見せるためのもの。お手本写真。主観が100%なのが作品、主観50% 客観が50%あるいはそれ以上が作例と考えていただくのがわかりやすいと思う。場合によっては過去の作品を作例として、お見せする時もある。ただそれはなかなかまねできない写真あるいは万人受けする写真でない場合が多い。

 ここで困ったことが生じてくる。プロでも作例ばかり撮っていると作品が撮れなくなる。それはこう撮ったら、読者受けするだろう、あるいは説明しやすいだろうということになり、いつしか自分の世界観の作品が撮れなくなってきてしまうこと。
メーカー系のギャラリーはそれでも通用することがある。だが通用しない世界がある。それは美術館もしくはアートギャラリー。これらは常に高いレベルの作品を発表展示し続けないと、自らのブランドイメージも落ちてくる、あるいは販売を目的としているところでは売り上げ減少で経営が成り立たなくなってくる。そうゆう美術館やギャラリーではキュレーターと言う存在が大きくなってくる。キュレーターは作家の作品を研究しその内面を見つけ出し 展覧会の企画立案、展示方法の提案をする。そのためより作品に対して審美眼が要求される。

昔は多くのキュレーターがカメラメーカーギャラリーに新人発掘のために訪れたと聞いていたが、今日ではほとんど行かないと聞いている。
その理由はデジタル化の波が現れた2000年代になってからメーカー系ギャラリーは技術の進化を見せるため あるいは激烈な販売商戦を生き残るために、作品から作例になってしまったからだと言われている。このカメラを使うと、こんなにきれい撮れる。あるいはこんな瞬間にAFが合致して撮れる。画素数のすごさがわかる写真、作品内容より機能訴求寄りになってしまったからだと言われる。すごい、珍しい、奇麗、その向こう側にあるサムシングエルスが表現できていない、被写体愛が乏しいとも言われている。


話は少しそれたが、作品と作例の違いは、きれいの向こう側、あるいは被写体愛があるか、ないかにかかってくると僕は思う。風景だったら「この土地が大好き」「この桜の木をこよなく愛している」建築であれば「この建築の、柱のこの部分がセクシーで大好き」バイクであるならば「エンジンをこの角度で見ると鳥肌が立つ」そんな被写体愛が大切だ。コンテストに入選するためにはどう撮るか? この審査員受けするためにはどうするか?そればかり考えて撮っていると、いつしか自分の世界観から逸脱する。良いのが撮れた結果 それが審査に通りコンテスト入賞、あるいは写真展開催になるのが一番望ましい。そのためには作例ではなく作品としなければならない。

※それぞれの画像にアイコンを合わせると大きい画像が見られます

僕も今週2022~2023年の写真展開催のためにある美術館に審査に出す予定。考えることはいかに自分の内面を出すか、いかに作品が自分の分身であるかを伝えること。ぜひ皆さんも作例ではなく作品となるものを撮ってほしい

2021/3/08
※文章・写真の無断転用・掲載は禁止です。 文章・写真の著作権はすべて相原正明氏に帰属します